その案いただきっ!(村山鑑恵)

戸田ゼミコラムのアーカイブです。このコラムはすでに連載を終了されています。

2009年08月

戸田さんの紹介された
小倉昌男さんの著書を読んでいます。
私は戸田さんのネットセミナーに参加する
余裕がありません。が、毎回紹介してくださる
先人たちの生き様にいつも共感しています。
そして、次から次へと先人たちを紹介してくださる
戸田さんのパワーにも感心しています。
私は、その人々の著書を図書館から借りては
知恵を仕入れています。
「先人たちのことばがこんなに心に効果のあるものとは」と
うれしくなることしきりです。

戸田さんは40〜50代に生涯の計画をうまくされたから
60代の現在、このような時間がとれるけれども
普通はそううまくはいかないわよ!
とひがみっぽく考えることもありますが
なにしろ私は戸田さんよりちょうど10年分若いので
10年早く知恵をいただいた、得したなという気分を
大事にしてがんばりたいな、といつも思っています。

小倉昌男さんのことをはじめて知りました。
小倉さんが福祉の世界に身を投じておられることも
驚きでした。それで、まず、ヤマト宅急便の経営学より
むしろ福祉の世界での
「経営」の考え方の著書から読みはじめました。

というのは私自身、
そんなに「かせぐ」ということは大事なんだろうか
という疑問に答えが見いだせないでいるからです。

この歳でいったいいくらの稼ぎがあれば
心豊かになれるんだろうか、という疑問です。
答えは人によって、価値観によって、情況によって
グルグル変わるので
凡人は足元から抜けだせずに
同じ場所でグルグルもだえるばかりになってしまいます。

この人一人の考え方についていけばすべてが大丈夫!
というようなオンリーワンの人に巡り会えば
これに越したことはないのでしょうが
身につける服だって
季節、時と場所を選んで最低でも4〜5着は必要なのだから
考え方だって10や20の使い分けが必要なのかもしれません。
そういうことから考えると、戸田さんが
「こんな考え方をしてる人がいますよ、しかも50年も前に」
「それについては、こんな人がいますよ、どうですか」
「あなたの悩んでいることは、皆が学問として探求していて、
とても奥が深いことですよ。恥ずかしがることはないですよ」と
勇気づけてくれたり励ましてくださったりします。
知恵の使い方を教わっているという気もします。

福岡のムーン・テーブル(MOON TABLE)

昨年夏8月8日に
北京でオリンピックが開催されました。
女子レスリングで伊調姉妹が活躍しました。
結果は、妹・馨が金、姉・千春が銀でした。
2人で闘って手にしたメダルだと
彼女たちは誇らしげに語りました。

あれから1年が経ちました。
私は、去年8月26日に
ひとつの誓いを立てたことを思いだします。

私と私の妹も、次のオリンピックをめざし
自分立ちの仕事に全力をかけよう、と
ひとつ誓いをたてました。

ムーン・テーブルの店主も
店とともに歳を重ねていきます。
65才まではパンを焼き続けたい、という
店主(妹:村山照子)の願いを実現させようじゃないか、と
「元気なムーン・テーブル」プロジェクトを発動させました。

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「ムーン・テーブルに元気な30周年を迎えさせよう」
   =====(第1弾)=====
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◎昨年、6月にブログをはじめ
ブログは日々更新440回書き続けています。

◎商品の中身をよりしっかりと伝えられるように
クリスマスのシュトーレン、ケーキに帯をデザインしました。

◎ポスターや、チラシを刷新しました。
それまでは、私が片手間に軽くこなしていましたが
昨年からは、「販売する」ことを強く念頭におき力を入れて作りました。

◎クリスマスの時期、
シュトーレンにキャンドルなどをセットした
他店とのコラボ商品を企画し、品揃えに幅をもたせました。

◎ショップカードを季節ごとに用意しました。
近所のお店や関係者にお配りし
置いていただくことにしました。
新規に作っては挨拶がてら持っていきます。
「富山の置き薬」方式。

◎東京にムーン・テーブルの販売店ができました。
毎週水曜日に東京でムーン・テーブルのパンが食べられる!
すごいことが実現しました。

◎環境とエコの祭典グリーンエキスポ2009に出展し
東京での第一歩となりました。
福岡での食育祭には2回参加し販売しました。

◎グリッシーニを主力商品の柱にするため、単品だけでなく
カルテットなど開発しました。商品が一人歩きできるように
帯をつけ、商品説明をしっかり記載しました。

◎スタッフたちの興味や活動もブログで伝えられるようにしました。

◎妹が長年の夢だったヨーロッパへ旅しました。

羅列するとすごい量をこなしたものです。
帯のデザイン、クリスマス商品も
商品の企画、パッケージ・帯のデザイン、出力、カット、セット
すべて自分たちで行ないました。
印刷も外注せずに、です。

すばらしい!よくやっている!と、
とりあえず自分たちを自分たちで褒めてあげます。

さぁ、あと3年で次のオリンピックがやってきます。
その頃には還暦間近かの私たち、
まだまだ走りはじめたばかりです。

福岡のムーン・テーブル(MOON TABLE)

私より早くにさっさとグラフィックに見切りを付けた友人が
WEBで活躍している。別の場所で活躍している。
この現実には、とても居心地の悪さを感じますが
出来事のひとつひとつはすべてつながっているということが
よーくわかります。

「私の仕事が認められずにあの時干されていたら」
「結婚せずに、子供を産まずに、
その時間を全部仕事に使うことができていたら」

「たら」と「れば」はオバケと同様
現れてくれないんだから、結果を見届けることはできません。
ですから
「自分の納得がいくこと」
「好きで好きで夢中になってしまうこと」
に自分のありったけの時間とお金を使う
これしかないでしょう。

ふぁ〜っと、毎朝目を覚まし
「きょうはなにしようかな」
と考えるそのことが
10年後の私につながっているってことですよ。

福岡のムーン・テーブル(MOON TABLE)

私がマッキントッシュ(パソコンの技術)を学ぼう!」と決心したのは
新しいことに挑戦するという若さのためというのは当然ですが
デザイン業界で生きていくには
先端技術を取得しなければどうにもならなかったからです。

まがりなりにも自分の事務所を構えていましたので
進むべき路を自分で決めることができました。
電話1本でキャノン勤務のI氏が
マッキントッシュ一式を用意してくれました。
キャノンはどちらかといえば
ファックスやコピー機でシェアをのばしていたのですが
マックの代理店にもなっていたからです。

私は30歳代でした。その当時40歳代のデザイナーの人たちは
そろそろ現場を離れていました。
口だけディレクターのCDという役職だったりです。
その人たちはあっという間にパソコンの世界から
置いてけぼりを食らうことになってしまいました。
また、数々のプレゼンテーションをするために写真撮影前のカンプ
(こんなシーンを撮影しますという絵)を描いていた人たちも
パソコンに取って代わられることになりました。
エアブラシの技術が高く評価されていたイラストレーターの絵は
パソコン3Gが全盛になり、お払い箱です。

撮影現場に現れたカメラマンの車には自動車電話がそなえられ
それはカッコ良く高嶺の花でしたが
自動車電話はショルダー型の携帯電話になり
ついに現在のようなファッショナブルな
ケイタイに変身してしまいました。

その時には技術についていくために
必死で追いかけているだけですが
あのとき、「私はパソコンをやらない」と言っていたら
いまはとっくにデザインの世界にはいないと思うし
実際、管理職になった人たちのなかには
「おれ、もうわかんねぇよ」と居直ったり、
転職する人も大勢いました。
「下克上」ですよね、もう。
かわいそうでも仕方がない。

私は食べていくために
マックでのデザイン技術を必死で学びました。
そして、それでも、まだグラフィックデザインで食べていけました。
もし、あの頃グラフィックデザインの仕事にありつけなかったら
WEBデザインか、ほかの仕事に移行するしかなかったと思います。
そうしたら、創成期からWEBに関わったことになり
どんなにか今頃、WEBの技術に苦しまずにすんでいるのではないか、と感じます。

ということは
足に大けがを負ったために戦争に出兵できず
その為に死ななくてすんだ、という話しのように
「禍福あざなう縄のごとし」
「災い転じて福となる」なんですね。

福岡のムーン・テーブル(MOON TABLE)

技術の進歩について行くのはとても重要なことです。
グラフィックデザイナーとして就職したばかりの1979年頃は
版下を作るのには紙と定規とロットリングを使っていました。
烏口という烏の口に似たペンで線を描くことから
ロットリングペンというペンで
何通りもの細い線を描けるペンに変わった頃でした。
文字は鉛でできた活字から写真植字(写植)に変わり
文字指定がポイントから級数になりました。

だ円を描くのにテンプレートを使い、
曲線には雲形定規を使ったことが
ウソのような昨今ですが
ほんのちょっと前までこれが当たり前だったのです。

会社から独立してデザイン事務所をかまえて3年目、
1990年頃、マッキントッシュコンピューターの存在を知りました。

友人を介してさっそく手に入れたマッキントッシュCS。
マック本体、プリンター、スキャナー3点で
200万円のリース契約したなんて
ほんとに高かったんですねぇ。

でも、パソコン操作がわからず、
一年間は、机の上にただ鎮座していました。
最初にマックを使って作ったのは
だ円をたくさん使ったデザインでした!
スパスパ描けることはものすごい驚きでしたね。
よく爆弾マークがでてフリーズしたものです。

デザインに限らず、仕事をする上では
どのような職場であれ、機器の改良がなされています。
ですから仕事というのは
同業者との技術の競争だということで
発想が大事といわれるデザイナーでも
技術あってのことだったのです。

福岡のムーン・テーブル(MOON TABLE)

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